<写真>を見る目を養おう。(1)
犬の写真を撮っていると、「どうやったら、うちのコをうまく撮れるの?」という質問をよく受けます。でも、ちょっと待ってください。そもそも「写真って何?」ということを考えたことがありますか?この「FB. 写真教室」シリーズでは、そんな写真のそもそも論から具体的な技術論まで、順を追ってじっくりと語っていきたいと思います。
(french-off・内村コースケ)
今目の前にいる自分の犬が上手に撮れない。日々成長してゆく犬たちの姿を記録したいというのは、飼い主みんなの切実な願いだと思います。そこで「あのカメラのこんな機能を使ってこういうふうに撮ればいいですよ」と言うのは簡単です。実際私たちfrench-offでも、飼い主さん向けの写真教室や雑誌記事では、そういった実践中心のお話をさせていただいています。
しかし、犬の写真が最も多く載るペット雑誌を取り巻く状況を見ていると、そもそも他メディアに比べて写真そのものへの根本的理解が圧倒的に足りないと言わざるを得ません。犬がよく写っていることは写っているのですが、写真そのものとしての質に疑問符がつきます。むしろ、個人のブロガーさんたちが発表している作品の中に光るものを見つけることが多いというのは、かなりお寒い状況だと思います。
そもそも、写真を絵画のように「作品」と言えるしょうか?「芸術」でしょうか?私は写真を始めた高校生の時に「写真家になりたい」と親に言った時に、「そんな機械で目の前をものを写すだけのことなんて・・・」と嘆かれました。絵画ならピカソの作品でなくても、コマーシャルベースのイラストでも、それは「作品」。写真は「写したもの」=「現実のコピー」でしかない、というのです。また、プロになってからも、仕事で使う大きな一眼レフを持っていると「そういうカメラなら、うまく撮れるんでしょうね」と言われることが時々あります。これも、写真はカメラという機械が作る「コピー」だという意識から生まれる発想でしょう。
まず、写真は現実のコピーか、という問題から。そもそも、現実って何でしょう。視覚的な現実、ということに絞って言えば、これほどアヤシいものはありません。今、私たちが見ている光景だって、眼球という器官で光を受けて、脳内で変換された「映像」です。つまり、写真や動画と変わらない。もしかして、私が見ているFBという生き物と、あなたの見ているFBの姿は全然違うかもしれません。私たちが認識している現実そのものがあやふやなものなのですから、コピーも何も、やはり目で見ている映像同様、写真は写真で現実とは違うのです。さらに言えば、犬たちにとっては1枚の写真プリントは「紙状の何か」であってそれ以上でもそれ以下でもなく、絵画においても同様です。
だから、この点においては、僕は絵画と写真の間に本質的な差はないと思います。写真は目の前の情景を「誰が」「どのように」切り取ったかが問われる、れっきとした「作品」です。「誰が」「どのように」。そこには当然、撮影者の「心」が反映されるわけで、そうしたものが「作品」とか「芸術」と言われるとすれば、写真を絵画とは別物、と考えるのはおかしいと思います。実際、日本ではあまり写真を芸術として見る教育は行われていないようですが、僕が子供の頃に通っていたカナダの学校では、アートの授業のいちカテゴリーに、当たり前のように「写真」がありました。
では、カメラという機械が作り出す写真は、絵筆と絵の具で作られる絵画とは質が違う、という話は?これはもはや、前段で言ったように写真撮影が「心」を投影する作業だとすれば、「使う道具の違い」としか言いようがありません。いい筆と絵の具を使ったからと言っていい絵が描けないように、いいカメラならいい写真が撮れるわけはありません。
それでも、「押せば写る写真と、才能ある人が訓練を積まなければ描けない絵とは違う」と言う人もいるでしょう。僕は、高校時代、親にも揶揄されたこの「押せば写る」ということがクセモノだと思っています。というのは、確かに今の自動化されたカメラの場合、シャッターを切るだけで何が写っているか分かる写真が撮れます。そして、下手な人でも偶然すごくいい写真が撮れることがあります。極端な場合、間違ってシャッターを押したらいい写真が撮れたということもあります。絵では下手は下手、偶然はほとんどありません。しかし、この偶然撮れたいい写真、やっぱり下手な人の偶然は上手い人の偶然にはまず及ばない。下手な人の偶然撮れたいい写真は、ツメの甘い部分を割り引いたうえでの「いい写真」であることがほとんどです。そして、偶然に頼る人は当然のことながら継続的にいい写真を生み出すことはできません。
さて、話は戻りますが、ペット雑誌を取り巻く写真の多くは「誰が」「どうやって」切り取ったかのではなく「何が」「どういう風に」切り取「られ」ているのか、ということを問題にしています。ペット雑誌の主役は犬や猫ですから、「何が」=「犬猫が」、「どういう風に」=「かわいく」ということを気にするのは当然です。しかし、そこに撮影者のセンスや犬に向ける心は、あまり反映されていない。経験から言えば、写真が持つ本質的な作品性に気付いていない、知らないギョーカイ人が多過ぎます。おそらく、高校時代の僕の親と同じように、写真は目の前のものをカメラという機械でコピーしたもの、というくらいにしか思っていない。だから、被写体だけが違う同じような、どこかで見たことがあるような写真が量産されてしまうのだと、僕は思います。
そして、自省の念も込めて、カメラマン自身、そういう見られ方に自分を慣らしてしまい、写真に心を傾けることをしなくなってしまっています。もちろん、僕もFB.本誌を含め、雑誌などの商業的な仕事でプライベートな芸術写真を撮ろうとは思いませんが、商業写真の中にも芸術でなくても「作品」である写真は他のジャンルでは溢れています。
そして、言いづらいことではありますが、読者の写真の見方についても、成熟していないと感じざるを得ない場面があります。『FB.』に限らず、犬雑誌の写真を見た時に最も多い反応が、「知ってるコが写ってる!」「このコかわいい!」です。犬そのものを目の前にした反応と変わらない。「写真」ではなく、「犬」を見ているのです。商魂逞しいギョーカイ人の中には、それを見越してわざと、犬猫がかわいく切り取「られ」ている写真しか載せない、撮らない強者もいるでしょう。一昔前に流行った「○○でかドッグ」、なんてそうですね。
でも、ペット雑誌の大部分は写真です。そして、ほとんどの飼い主が我がコにカメラを向けます。眺めるにしても自分で撮るにしても、「作品」として写真を見ることのできる目を養って損はないと思いませんか?次回からは、実例の画像を載せながら、もう少し具体的にこの話題に踏み込もうと思います